水曜日, 10月 27, 2010

アバド ブルックナー1番

 
 1996年1月ウイーンでのライヴ・レコーディング。ノヴァーク1866年リンツ稿での録音。なんとも白熱の演奏である。ウイーン・フィルは実に巧い。「ブルックナーってこんなに面白かったのか」といった新たな発見があるかも知れない。
 しかし、これは何度も聴くには問題がある。フレーズの終わりに奇妙な装飾的処理があり、はじめは新鮮、驚きをもって惹きつけられるが、繰り返し聴くとこの部分の作為性がいささかならず鼻につく。

 CD付録の解説書が参考になる。ヨッフム、ノイマンそして、カラヤンらに比べて、アーティキュレーション(※1)の技法に工夫があり、「アバドはアーティキュレーションのあり方を、音楽の進行(未来)に対して千変万化させる。それによって生まれる音楽の息づき方は、かつて出会ったことのないしなやかさを獲得する」と賛美、分析される。この指摘は聴いていて得心できる。しかし、それをもって、カラヤン(でなくとも良いのだが)の手法にくらべて、ポリフォニーが個々の楽器ごとに際だつことが、ブルックナー解釈の新たな行き方だとするのはどうかなと思う。

 アバドを聴きおわったあと、比較の対象になっているカラヤンの1番を聴く。果たしてどちらが、長期、反復的なリスニングに耐えうるのか・・・。ぼくは、明らかにカラヤン盤であると思う。サラリと処理し、全集のための消化試合といった穿った見方もあるが、完璧主義者で、あれだけ音楽に拘りのあるカラヤンが、大切なブルックナーでそんな安易な対応をするはずはない。録音の計算も周到だ。カラヤン盤は、はじめ聴くとパンチ力に欠ける印象があるだろう。弦楽器のアンサンブルが前にでて、木管のメロディの浮き彫りがこれに重なり、金管は距離をおいて抑制されたバランスで響く。アバド盤のように、金管は熱く目眩るめく鳴ってくれ!というリスナーの要望は少しく裏切られるだろう。しかし、このある意味、禁欲的なブルックナーは、硬質な初期ブルックナーらしさ(といっても何度も改訂をしているのでいわゆる「初々しさ」とは別物だが)が看取できる。なるほど、楽譜に忠実とは、安易な技巧を労さず、音楽の自然の流れを尊重することなのだなと感じる。だから反復して聴くとスーッと入ってくる。カラヤン嫌いは、この処理そのものが問題だとするのだろうが、それはさておく。

 アバド盤の熱気は若きブルックナーファンには受けるかも知れない。しかし、俗に言う、おもちゃ箱をひっくりかえしたような矢継ぎ早の個々の楽器パートの次から次へとフレーズのバトンタッチの強調は、4Dオーディオといった録音技術で一層倍加され、面白いけれどもブルックナーが本来、伝えたかったであろう素朴なメッセージを背後に隠してしまうように思える。ぼくには、地味な作家の本を派手な装丁で売っているような違和感がある。

 いわゆる初期ブルックナーでも、0番のショルティ、2番のジュリーニは、流列を尊重し、一定の抑制を効かせた、したたかな巧者であると思う。また、1番ではノイマンの駘蕩とした見事な自然さはやはり心地よい。でも、アバド盤、この白熱さをかって、これもまたありかなと今日は言っておこうか。多様性の重視、あくまでも好みの問題かも知れないし・・・。
http://shokkou3.blogspot.com/2008/05/1-19651213-14berlin-classics-0094662bc.html

(※1)アーティキュレーション(articulation)とは、音楽の演奏技法において、音の形を整え、音や音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。
 フレーズより短い単位で使われることが多い。スラー、スタッカート、アクセントなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3_(%E9%9F%B3%E6%A5%BD)

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