金曜日, 10月 22, 2010

メータ ブルックナー0番、8番

 
 メータをはじめて聴いたのは16才の時、1969年、ロスアンジェルス・フィルとの来日演奏会だった。2夜聴いたが、9月7日に、ベートーヴェン/エグモント序曲、ストラヴィンスキー/ペトルーシュカ、ブラームス/交響曲第1番、 9月10日は、アルベニス/イベリア、セビリアの聖体祭~トリアーナ~ナバーラ、クラフト/4人の打楽器奏者と管弦楽の為の協奏曲、チャイコフスキー/交響曲第4番(いずれも東京文化会館)というラインナップであった。
 その頃、写真の「ツァラトゥストラはかく語りき」が話題となっていた。溌剌たる精気、猛進の迫力がくっきりとでており、若き獅子のイメージどおりであった。
 忘れられないのは9月7日の公演前で、文化会館の2階に早く食事をするために上がったら(当時は、ここでハヤシライスを食べるのが楽しみだった!) 、メータも正装した団員とともに腹ごしらえをしていたことである。そのフランクさというか、リラックスぶりに驚いた。当時メータは33才、写真のとおりの若さ、エネルギッシュという言葉そのものであったろう。

 さて、ブルックナーである。イスラエル・フィルを振った2曲を聴く。
<DISK1>交響曲第8番ハ短調(1890年稿 ノヴァーク版)第1~3楽章
<DISK2> 同第4楽章、交響曲第0番ニ短調(1869年稿 ノヴァーク版)
いずれも1989年の録音である。メータ53才頃の演奏である。このCD付録の解説書を読むと、評者はどうも戸惑っているようで、そのブルックナー解釈について「確たる芯の欠陥を見ることも可能」といった表現をポロッとしている。前後ではいろいろと糊塗した言い方もしているが、これはどう考えても褒めていない。珍しいことではある。メータのブルックナーは、ほかにウイーン・フィルとの9番やテデウムもあるが、こちらも一般に評価は芳しくない。


 予断を廃して聴くが、まず感じるのはいかにも「大味」だということである。録音、あるいはオケのせいかも知れないが全体にメリハリの乏しい茫洋、淡々とした演奏。メータは、チェリビダッケを大変尊敬していて、特にその速度感について、「あそこまで遅くして崩れないのは驚異」といった発言をしていたはずだが、メータ盤のテンポはそう遅くない。
 8番については、下記のブーレーズ/ウイーン・フィルの巧みすぎるようなポリフォニー解析に感心した直後に聴いたこともあって、余計に感じたかも知れないが、よく言えば鷹揚、悪く言えば音楽の細部に神経が通っていない印象である。0番はまあ、程良くアクセントをつけて指揮者の技倆で乗り切っているが、各指揮者、渾身の8番では、切れ味のよいメータらしくない不思議な解釈である。好きな指揮者であるがゆえに誠に残念!
 あえて想像を逞しくすれば、チェリビダッケ的ではなく、晩年のカラヤン的な雰囲気を参考とした節がある。しかし、細密画をさらに入念にチェックするような晩年のカラヤン(ぼくはあまり好きではない)に対して、メータはむしろ非統制的な運行、いわば大仰さを強調したかったのかも知れないが、その試みは巧くいっていない。バレンボイム/ベルリン・フィル盤とともに再度、手に取ることに逡巡するものである。

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