金曜日, 5月 21, 2010

クラシック音楽 聴きはじめ  1  メンゲルベルク

 名匠メンゲンベルク http://classic.music.coocan.jp/cond/modern/mengelberg.htm  

クラシック音楽を聴きはじめた頃、その有力な媒体はNHK-FM放送であった。レコードは高くて、そうそう手が出なかったから、なによりもFMからのソースが有り難かった。そこで、はじめに集中して耳を傾けたのが、写真のメンゲルベルクである。  
1940年代の録音で、ブラームスの第1番、ベートーヴェンの第5,6番などをアムステルダム・コンセルトヘボウで聴いた。いわゆる名曲シリーズでは、ドボルザークの第9番はアンチェル/チェコ・フィル、チャイコフスキー第3番「ポーランド」はマルケヴィッチ/ロンドン交響楽団、ビゼーの交響曲は、ミュンシュ/フランス国立SO、ブラームスの第3番はワルター/ニューヨーク・フィル、シューベルトの第9番はベーム/ベルリン・フィルといったライン・ナップだった。音は良くなかったが、いまからみても贅沢な演奏であったと思う。  

交響曲ばかりを聴いていたわけではない。ピアノは、バックハウス、ケンプ、ルビンシュタインなどを好んで聴いた。ヴァイオリンはシェリングの全盛時代だったが、オイストラフ、メニューヒンもよく流れていた。イ・ムジチの「四季」は、シェフがアーヨからミケルッチにかわって演奏スタイルも理知的になっていた。フルートでも金色のランパルか銀色のニコレか・・・といったライヴァル的な視点も楽しかった。  

ワーグナーの楽劇も、いまよりもはるかに注目されていた。年一度のバイロイト特集は、憧れをもって集中して聴いた。また、ザルツブルク音楽祭やウィーン芸術週間なども、通常のレーベルを超えた演奏者の組み合わせにチェックは欠かせなかった時代である。



金曜日, 5月 07, 2010

大指揮者の「先生」


<断片的メモ>
 フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、カラヤンやベームのブルックナー演奏を自分なりに「再考」してみて、改めて、彼らの「お師匠筋」について関心をもった。以下はその断片書きである。

<再考シリーズ>
フルトヴェングラー
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!1290.entry?&_c02_owner=1
フルトヴェングラー & クナッパーツブッシュ
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!1302.entry?&_c02_owner=1
カラヤン
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!1304.entry?&_c02_owner=1
ベーム
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!1305.entry?&_c02_owner=1

 はじめに、ここで登場するハンス・リヒター、アルトゥル・ニキシュ、カール・ムックといった大指揮者は、ブルックナーの交響曲を広めた功績は大きいながら、彼らのレパートリーからすれば、ブルックナーは主要の一部でしかなかったことである。いわゆるドイツ・オーストリー系(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど)の古典をしっかり押さえていたほか、ロシアもの、イギリスものなど同時代音楽の取り上げも行っている。職業的指揮者として、ある意味、オールラウンダーであったと言えるかも知れない。

 ハンス・リヒターは、ワーグナーの「指輪」もブラームスの2,3番のシンフォニーも初演した。彼にとって、当時のワーグナーVSブラームス論争などは、指揮者の職業上、顧慮すべきことではあっても、全く本質的ではないと思っていたであろう。だからこそ、ワーグナー派とみられていたブルックナー交響曲の初演も積極的に行った。
 ニキシュは、R.シュトラウスやマーラー、チャイコフスキーなどの作品も多く紹介する一方、ベートーヴェンの5番のシンフォニーをベルリン・フィルと録音(1913年)したことでも有名。 カール・ムックは、スコアに忠実な近代的な指揮者の祖とも言われるが、チャイコフスキーベルリオーズエルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ等の小品集の録音もある。 そのうえで、次の世代との関係を見てみよう。

 まず、クナッパーツブッシュと先生ハンス・リヒターの関係。リヒター(Hans Richter, 18434月4日 - 1916年12月5日は、19世紀後半から20世紀初頭を代表するドイツ人の大指揮者。ハンガリー(当時はオーストリア帝国の一部だった)のジェール生まれ。ハンガリー名はRichter János。主にウィーンバイロイトロンドンで活躍)
は、ブルックナーの交響曲第1,4,8番の初演指揮者。ブルックナー自身がもっとも感謝をしていた大指揮者である。

(参考)
 従来は「1909年、バイロイトにもぐりこみ、3年ほどハンス・リヒターの助手を務める」などと書かれていた。大学時代に何度もバイロイト詣でをしていたことは確からしい。1910年1月にジークフリート・ヴァーグナーから「音楽祭の最終稽古に居合わせてください」との手紙をもらっている。しかし1910年には音楽祭は開かれていない。ハンス・リヒターの謦咳に接したのは1911年の音楽祭だったと思われる。彼がアルフレートではなくハンスの名を用いるようになったのはリヒターの影響だろう、と奥波氏(※)は書かれているがその通りだろう。
(※)2002年、奥波一秀 著「クナッパーツブッシュ」(みすず書房)
(出典) 
http://classic.music.coocan.jp/cond/modern/kna.htm 
 次にフルトヴェングラーと前任者ニキシュ(Nikisch Artúr, Arthur Ni 1855年10月12日 モション県レーベーニ近郊レーベーニ・セントミクローシュ Lébényi Szent-Miklós現在のモションセントミクローシュ Mosonszentmiklós) - 1922年1月23日は、現在のハンガリー出身で主にドイツで活躍した20世紀初期の大指揮者の一人)のついて。ニキシュはブルックナーの交響曲第7番をライプチッヒで。彼もブルックナーをよく理解していた大指揮者。
(参考)
 フルトヴェングラーが生まれたのは1886年のことです。ベルリン・フィルの創立は1882年ですが、その当時はいつまで続くかわからないオーケストラであったのです。 当時は、音楽のコンサートというものが興業としてやっと成立するようになった時代なのです。これによって、コンサートを主催する側とコンサートに出演する側の間に立つ「エージェント」という職業が誕生したのです。そういう創生期にヘルマン・ヴォルフがエージェントを立ち上げたのです。 
 当時ベルリン・フィルは、フィルハーモニア協会という支援団体が支えていたのですが、あまりにも多額の赤字に耐えかねて、この協会は解散してしまうのです。1887年のことです。 
 これによって、ベルリン・フィルは自立を迫られたのですが、そのとき救いの手を差し伸べたのがヘルマン・ヴォルフです。ベルリン・フィルのオーケストラの腕はよく、良い指揮者を付ければ、興業として成り立つと判断したのです。 
 そこで、ヘルマン・ヴォルフが連れてきた指揮者が、ハンス・フォン・ビューローだったのです。ビューローはピアニストで、現代の職業指揮者の先駆的存在なのです。ビューローが登場するまで、作曲家と演奏家の分業化は明確でなく、オーケストラの指揮は作曲家自身がやるのが常識だったのです。 
 ところが、1894年にビューローは死去してしまうのです。そこでヴォルフは後継者として、アルトゥール・ニキシュを任命するのです。1895年にニキシュは、ベルリン・フィルの首席指揮者に就任します。このヴォルフという人は、オーケストラの指揮者の実力を見抜く目を持っていたのです。 
 しかし、今度はこのヴォルフが1902年に56歳の若さで亡くなってしまうのです。しかし、ヴォルフの事業は軌道に乗っていたので、この事業は妻のルイーゼ・ヴォルフによって引き継がれるのです。 
 ルイーゼ・ヴォルフは、夫の遺した音楽家との人間関係を引き継ぎ、新しい才能を見抜く力に加えて、企業家としての実力もあったのです。そのため、多くの音楽家から慕われる存在になり、しまいには「女帝」といわれる存在になったのです。 
 当時フルトヴェングラーは16歳でしたが、彼は後援者の紹介でヴォルフ家と知り合いになり、ルイーズの息子のヴェルナー・ヴォルフと親しく付き合っていたのです。 
 1922年1月にニキシュが亡くなるのです。その時点でフルトヴェングラーは若手の指揮者として注目を集めており、ベルリン州立歌劇場管弦楽団と契約したばかりだったのです。 
 といってもフルトヴェングラーは、州立歌劇場管弦楽団のオペラの指揮をするのではないのです。州立歌劇場管弦楽団はオペラの演奏をする以外にコンサート・オーケストラとしても活動していたのですが、フルトヴェングラーはそのコンサート・オーケストラの指揮者としての契約を結んだのです。 
 ニキシュは、ベルリン・フィルだけでなく、ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督をしていたのです。そして、
1922年1月10日にニキシュはゲヴァントハウスの定期演奏を振っているのですが、1月26日にもゲヴァントハウスの定期演奏会があったのです。しかし、ニキシュはオランダへの客演が決まっていたので、フルトヴェングラーが代役を務めることになっていたのです。 
 ところが、1月23日にニキシュが亡くなってしまったので、フルトヴェングラーの振るコンサートは、ニキシュの追悼コンサートになるのです。追悼コンサートを振る指揮者はそのオーケストラの後継者になるのが通例です。      

(出典) http://electronic-journal.seesaa.net/article/118149326.html

 ベームの「先生」も有名なカール・ムック(Karl Muck, 1859年10月22日 - 1940年3月3日は、ダルムシュタットに生まれシュトゥットガルトに没したドイツ人指揮者)。ベームにとっては、ワルターとともに、恩師だろう。ワルターの「先生」はグスタフ・マーラー。マーラーはブルックナー交響曲第6番の全曲を初演した。

(参考) ムックのレパートリーの中心はやはりワーグナーで、前述の『パルシファル』のほか、『ニーベルングの指輪』を含む主要作品はすべて指揮した。そのほか、彼はブルックナーも積極的に取り上げた。中でも、ウィーンに先駆けての『交響曲第7番』のオーストリア初演(グラーツ、1886年)、あるいは、アメリカにおけるブルックナー作品の紹介などが注目に値する。アメリカでの初期のブルックナー演奏は、アントン・ザイドル、ニキシュ、マーラー、そして、ムックらによって行われたのである。http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/muck.html
1917年 - グラーツ市立歌劇場でデビュー。首席指揮者の座を約束されていた。しかしリヒャルト・ワーグナーの友人であったカール・ムックがベームの「ローエングリン」を聴いた際に感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介した。1921年 - ワルターの招きにより、バイエルン国立歌劇場の指揮者に転任。ワルターはベームに多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えた。そしてまたベームもモーツァルトの権威として知られることになる。ワルターとの交遊関係は戦中戦後を通じて続くこととなるが、1922年からはワルターに代わり、クナッパーツブッシュが音楽監督になった。しかしクナッパーツブッシュも、モーツァルトに関してはほとんどベームに任している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A0