月曜日, 9月 21, 2009

ブルックナー 哲学的テーマ

 哲学書を読んだからといって哲学がわかるとは限らない。ブルックナーの書架に哲学書がなかったからといって彼の音楽が哲学的ではないとは言えない。
 
 ブルックナーの交響曲は、「はじめ」と「おわり」がないかのように、各曲ともに連綿とつづく。どうして、こうした交響曲を、順不同でなんども手直ししながら書かなくてはならなかったのだろうか。そして、ブルックナー自身、9番の<終曲>とはなにかを、悩みつつも実は見いだしていなかったのかも知れない。9番の4楽章の途中まで書いて、「あとはテ・デウムで代替してくれ」とこれを投げ出してしまったのも、「おわり」としての<終曲>が書けなかったからではないのか。

 「宇宙的」という形容もそれと類似性がある。「無窮性」というのも同様。逆に、ブルックナー嫌いが、「締まりがない」、「堂々巡りだ」というのは、その裏返しで、ファンからみれば、「してやったり!そこが魅力よ!」ということになる。ブルックナーの音楽は体系的である。あるいは絶対音楽上、体系的にすぎるくらいだとも評される。ブルックナーの音楽はマーラーとの比較でも、けっしてニヒリスティックではないと思う。むしろ、肯定的、積極的なイメージを金管で奏でる巨大コーダを終盤におくケースが多い。舞曲風のメロディは明るく楽しい曲想ものせている。

 学生時代に囓ったハイデッガーの<世界観論>に通じるようで、しかしそれは完結しない。聴くものに哲学的なテーマを投げかけ考えさせるけれども、<音楽>はあくまでも<音楽>であり思考の帰結はない。しかし、それが哲学から宗教にジャンプすると考えるのはあまりに短絡的という気もする。宇宙的という意味では、大好きな埴谷雄高も連想させるが、ブルックナーの雄渾さとの対比では、これも単純すぎるアナロジーだろう。

 そして、ここも面白いのだが、もっともある意味でドイツ観念論を彷彿とさせる「哲学的」な感じがするフルトヴェングラーのブルックナー演奏にはある種の説得性はあるけれど、その一方、あまりそうした心理の纏のない、シューリヒトの独特の軽みも、クナッパーツブッシュの大伽藍的な演奏構築も双方、すっきりと収めてしまう許容さが実はブルックナーのテクストにはある。

土曜日, 9月 12, 2009

「古き名盤」の整理

 1960年代、70年代の「レコード芸術」の推薦盤の一覧を再整理した。
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 これをながめていると、ブルックナーの録音に関するかぎり、「黄金の60年代」「多様化の70年代」といったタイトルをつけたくなる。一方で、ブルックナーに限らず、大御所の変遷をみるような感じもあるが、いまに聴き継がれる名盤が、実に多く60年代に世にでていることがわかる。

 もちろん「80年代」、「90年代」、今世紀入りほぼ10年といった10年刻みで、さらに変化をみていくことは可能だが、60年代の強力な<シンドローム>を超える動きにはなっていないと直観的に思う。また、自分自身、この数年間で結構、系統的に聴いてきたなあとも感じる。