土曜日, 2月 07, 2009

ブルックナーとマーラー



 <ブルックナーとマーラー>
 この2人は、一種の師弟関係でもあり、同時代にウイーンで過ごし活躍した偉大な交響曲作曲家でもあるが、その特質はだいぶ異なっている。
 マーラーの音楽は、世紀末の都会的な雰囲気に満ちているように思う。日中、強い太陽光線に射られて、路上を鋭角的に切り取るビルの影絵のような陰影があり、その一方で、時に異様に派手なオーケストレーションは、夜の帳が下りてからのネオンサインのような華やかさがある。
 ブルックナーの音楽は、マーラーとの対比において都会的ではなく、田舎の畦道に注ぐ陽によって、むんむんたる土臭さが強烈に立ち上がってくるような、そして夜は、真鍮のような深い闇に煌々たる月光が注がれるようなイメージがある。
 もちろん、こんな感じ方自体が「書き割り」的であることは意識しておこう。マーラーの腺病質的な音感とブルックナーのある意味、素朴で健康的な響きの対比も同様に「書き割り」的であろうし、宗教的な受容だって、おのおの都市と農村に育った両巨頭の差異は大きかろう。
 朝比奈隆がかつて語っていたが、オーケストラの楽員にとって、マーラーの音楽はスリリングで演奏への積極的な動機付けがあるが、ブルックナーはその点、面白さに欠けその執拗な繰り返しには忍耐を要するというのも頷ける気がする。
 都会生活の刺激と大らかだが単調さに時に辟易とする田舎暮らしに通じるものがあるかも知れない。これも朝比奈の言葉だが、ブルックナーを「田舎の坊さん」と呼んだ含意には、そうしたブルックナーの特質を良く言い得ていると感じる。
 ぼくは、ブルックナーもマーラーも聴くが、ブルックナーにより惹かれるのは、鄙びた山村に生まれ育った原風景が堅固に内在する「田舎志向」にあるのかも知れない。都会生活によって、実はその利便性、快適性をふんだんに享受する一方、何か満たされないものを彼の音楽が無意識に埋めてくれているのかも、とも思う。
 洋の東西を問わず、都会と田舎の関係性のなかで人は、さまざまに移動しその人生を送る。その点では文明国に生きる限り共通、共有するものは多いはずである。マーラーに惹かれる時、またブルックナーに魅せられる時、人は、心象における<都会>と<田舎>2極の振り子の振幅のなかに自らを置いているのではないかと感じる次第である。